どうぶつから学ぶ
管理者の若松です。
「知足」(ちそく)という言葉があります。
「足るを知る」という事です。
意味は、自分自身にとって本当に必要なものが足りているのかどうかが理解でき、制御でき、行動することができる事です。
人間はこの「知足」がほとんど実践できていません。
「あれが無いこれが無い」とか「どうして俺はこんなに運が無いのだ」とか不満や愚痴を言い続けています。
また、経済的にも社会的にも十分に満たされて、それ以上は必要ないにもかかわらず、
さらに富を追い求め、場合によっては他人がどうなろうと知った事ではないという人間もいます。
どうぶつをはじめ、自然界はこの「知足」でバランスをとってきました。
あの百獣の王ライオンでさえも、えさのシマウマなどを捕獲するのは至難の業です。
時には、なかなか捕獲できなくて、家族全員がやせ細ってあばら骨が浮き出すくらいに飢える事もあるそうです。
そんな状態になりながらもサバンナの厳しい自然の中を歩き回り、やっとの思いで、獲物を捕獲し家族を養う事が出来るのです。
そんなに苦労して獲物を捕獲しないといけないにもかかわらず、満腹になれば、たとえ目の前をシマウマが何頭横切っても、けっして襲おうとはしません。
それは、自然界の掟として「足る事を知っている」からです。
無駄な殺生はしないのです。
ところが人間はどうでしょうか?
くる日もくる日も我欲にまみれ、「自分さえ良かったら良いのだ」とばかりに、必要十分な量以上に富をむさぼろうとしています。
あるいは、十分に恵まれているにもかかわらず(この日本国に生まれてきたこと自体が感謝すべきではないかと思いますが)、「自分ほどみじめで不幸な人間はいない」とばかりに愚痴の人生を生きている。
両者とも自然界の大法則である「知足」を忘れ去っています。
「知足」がなければ「感謝」は生まれません。
「感謝」がなければ宇宙が喜ぶ生き方ではありませんから、幸運がまわってくることはありません。
どうぶつを畜生と言いますが、仏教では本来どうぶつそのものを畜生と言っているのではなく、人間に備わる生命状態(感情)のなかに畜生界がある事を言っています。
畜生界というのは本能の赴くまま考え、行動する事を言います。
どうぶつのある一面を例えて畜生といっているのであり、どうぶつそのものを揶揄しているのではありません。
つまり、どうぶつは生き方を学ぶ上でも素晴らしい先生なのです。
どうぶつを下に見るのではなく、どうぶつから学ぶことを提唱したいと思います。